僕とVOCALOID
米津玄師ことハチさんは、もうボカロ界には戻ってこないような気がする。
場所がすっかり変わってしまったのだろうか。
僕が最初にボカロを聴いていた2011年頃の雰囲気が、その名残さえ感じられない。
なぜ僕がその頃ボカロを聴いていたのか。
その頃僕の家でPCを所有していたのは父と姉で、姉が僕にPCで様々なものを見せてくれた。RPGを作るソフト、FLASHで動くブラウザゲーム、YouTube...。その中に、"VOCALOID"が在った。
初音ミクの消失、カゲロウデイズ、千本桜、ievan polkka、ワールズエンド・ダンスホール、パラジクロロベンゼン、空想フォレスト...。
姉が貸してくれる片方のイヤホンを片耳にあてて、夏休みにはいろんな曲を聴いた。学校にVOCALOIDを知る人はほとんどいなかった。
小学校高学年になって、僕もPCを買ってもらえたのだが、...なぜかVOCALOIDを一切聴かなかったのだった。
中学に上がると、周囲のみんながインターネットに積極的になり、クラス内では「脳漿炸裂ガール」を筆頭に(当時の僕はボカロの曲であることすら知らなかった)、VOCALOIDの曲が流行りだした。
そんな周囲を、僕はどこか一歩引いたようなポジションに立ち、一歩引いたような目で見ながら、しかしなぜそのような行動をするのかも分からず、それを考えることもなく、ボカロには一切触らない中学時代を過ごした。
最近、答えが分かってきたような気がした。
なぜ僕が中学時代、周りがハマっているのにも関わらず、かつて山ほど聴いてきたボカロに興味を示さなくなったのか。
それは「雰囲気が違うから」ではないだろうか。
人気のコンテンツには、そのコンテンツの代表格となる作品がもちろん存在する。
そして我々は、そのコンテンツの「色」を、その代表作で推測ないし判断しているのではないか。
時代が変われば人気の曲も変わる。人気のアーティストが新しい曲をだせば、自然とその曲がそのコンテンツの代表作となることだってある。
つまるところ、僕がただ、その時代の変化に馴染めなかったということである。
カゲロウデイズはいつの間にか小説が出ていたし、ナユタン星人という新しい人気のアーティストがいつの間にか誕生していたし、かつて人気のボカロ曲を量産していたハチが「米津玄師」としてメディアへ露出するようになったし、極めつけにはニコニコ動画が瞬く間に衰退した。
もはや、9年前のボカロ界はどこにも存在しない。僕は諦めて、衰退したニコニコ動画で、昔の曲を、かつて聴いたその曲を、積み上げられた山の中から探し出して聞くほかないのかもしれない。