ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

周りの目を気にしすぎたせいでいつのまにか捻くれていた

中2の頃から、突然周りの目を気にするようになった。話しかけたらうざいやつだと思われるだろうかとか、ここで気を遣わないと相手は不快に思うだろうなとか、とにかく僕は「いい人」である僕に価値を見出すようになった。

時期は不明だが、なんとなく「外面と内心が乖離しているのが気持ち悪い」という無自覚な意識がはたらいて、例え「あまり美味しくないな」と思っていても「美味しい」と思わなければいけない、と考えるようになり、それが偽のこころを作るに至った。

 

やがて僕は謙虚に振る舞うことを覚えた。謙虚でなければ周りから煙たがられる。それが怖いから謙虚になる。謙虚になれば、周りからいい人だと思われる。それが嬉しいから謙虚になる。このような不純な動機により、僕は例え誇りたいと思っていても謙虚に振る舞わねばなるまいとして、無理矢理謙虚な自分を作り出した。

 

限界はとっくに来ていた。「もっと素直な人間になってはどうか」となんとなく思い立ち、自分で成し遂げたことは素直に誇ってみようと思った。大学受験期もちょうどその時期と被り、僕は精神的に素晴らしく健康な状態で、受験を終えることができた。

 

しかし、ひと段落して蓋を開けてみると、僕のこころは思った以上に難しかった。長年の間作り出し、積み上げてきた偽の謙虚さは、僕に謙虚であることに喜びを感じさせるようになっていたようだった。要は「謙虚に振る舞っている自分は素晴らしい」と思うようになってしまった、ということである。度し難く気味の悪い心理である。

 

したがって、

「本音がそのまんま現れた本物のこころ」と「良き自分を演じるため本物に見せかけた偽のこころ」、そして

「自分のこころを疑い、それは本物のこころであるか否かを検証するこころ」の3つが少なくとも存在していることになる。

 

だから、例えば僕が人に親切をしたとき、僕のこころの中では「僕が今この人を助けたのは、周りに親切な人だと思われたいからか?それとも単に優しさからか?」という捜査が行われる。だが、この捜査は大抵迷宮入りに終わる。

 

一体なぜこんな人間になってしまったのか。突き詰めれば、それはやはり他人からの目を気にしすぎたからだと言わざるを得ない。

 

自分が今その事象に対して感じたことや思っていることは、果たして本当なのかそれとも偽なのか、その判別がすっかりつかなくなってしまった。どれが「本当のこころ」なのかわからない。自分は今、咄嗟に偽のこころをつくったのではないか、と疑うばかりで、一向に本音は見えてこない。

自分は本当は薄情者で、他人をいとも簡単に攻撃してしまう最低な人物なのかもしれないと考えてしまい、そしてその可能性が捨てきれるわけではないという事実がさらに頭を悩ませる。

 

僕の考えすぎなのか、それとも本当にそうなのか。謙虚ではなく、もっと素直に生きるべきか。受験を終え、おつりが返ってくるほどの時間を哲学に割いたおかげで、また一つ新しい自分を自覚することができた。それは良いことだが、見つけてしまった自分の心の闇(?)をどうにかして取り除く術はないのだろうか。

 

知らぬが仏… もしかすると、触れてはいけないものに気づいてしまったのだろうか。