ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

朝鮮半島の "もし"

日本と朝鮮半島は、古来から様々な分野で関係を持ち続けてきた。

 

19世紀後半から20世紀前半にかけては、日本が朝鮮半島に対して優位に立つという関係であったが、それは日本の敗戦と、90年代の韓国の経済成長によって薄れてきている。

特にサムスン電子が誇る半導体製造技術はすさまじく、2020年の世界半導体売上ランキングで、Intelに次いで2位にランクインしている。

 

この30年で大きく発展を遂げた韓国だが、私はここで1つの「もし」を考えてみたくなった。

 

それは、「もし朝鮮半島がもう少し南にあったらどうなっていたのか」である。

 

 

 

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白地図専門店 からDLの上、加工。
上図は、私の想定する朝鮮半島の姿である。

早速想像を広げていきたいところだが、その前に現実の朝鮮半島が、その姿によってどのような道を歩むことになったのかを素人レベルで考察していきたい。

 

 

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白地図専門店 からDL。

現実の朝鮮半島を、地理的な側面から見てみようと思う。

韓国の首都ソウルは、ケッペンの気候区分においては温帯夏雨気候だが、大陸性気候の一面もあり、シベリア気団の影響で冬は緯度の割に冷え込む。

ソウル近郊の都市は亜寒帯に属することもあるから、半島全体で考えると「寒冷」であると言える。

その寒冷な気候からか、韓国は山間部を中心に、寒さに強いマツの木がやたら多かった(体験談)。

 

山脈も多い。東岸スレスレに巨大な山脈が走っており、そこから南西に向かうように、いくつもの小さな山脈が、朝鮮半島全体にゼブラ状に飛び出ている。

韓国には大きな川は存在しない。ソウルと釜山を結ぶ川などというのは一切なく、それぞれの広域圏内で完結してしまう。東京から茨城くらいの感覚だろうか。

一方で北朝鮮には、中国との国境付近から流れ出て平壌を経由し、西岸部に至る大同江という川が存在している。ただ、どの河川も川幅は決して広くない。 

 

これらから考えられることはまず、歴史的に見て朝鮮半島は閉鎖的な特色が強かったのではないか、ということである。

南北に広い朝鮮半島だが、その南北移動を行うには、川なしでいくつもの山を越える必要がある。相当にハードである。

中国は黄河や長江といった巨大な河川が存在していたため、「川の上流を支配したグループが、次の王朝の座に君臨する」というジンクスさえ生まれたが、朝鮮半島においては人・モノの流動性がなく、結果的に半島を統一した高麗や李氏朝鮮などが、長い間支配を続けるということが起こった。

 

加えて指摘しておきたいのが、韓国の木材自給率の低さである。先述の通り、寒冷でやたらマツの木が多い韓国だが、マツの木は伐採すべき適切な時期が決まっており、年間を通じていつでも切ってよいというわけではないため、流通量に限りがある。結果、日本産のヒノキの需要が高まった事例がある。

朝日新聞デジタル:日本の木材、韓国で人気 - 広島 - 地域

温暖な朝鮮半島南部の韓国でさえ輸入に頼っているのだから、北朝鮮自給率はさらに低いのかもしれない。

 

木材資源に乏しい朝鮮半島。現代でこそ輸入に頼ることができるものの、果たして近代以前の朝鮮半島では、いかにして木材不足を乗り切っていたのだろうか。先人の苦労があったことは想像に難くない。

奈良時代の日本人は、唐の長安を模倣して平城京を作り、また高麗人の末裔が建てた渤海国も同じように上京竜泉府(東京城)を牡丹江のほとりに作ったが、当時朝鮮半島を支配していた高句麗でそのような大都市が興らなかったのは、やはり川と木材資源の少なさが関係しているのかもしれない。

 

 

 

ここからは、いよいよ想定上の朝鮮半島について、年代順に考えていく。

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朝鮮半島が持つ地形的な特色(河川の少なさ、山脈の多さ)や、現実に存在する場所と地名はそのまま引き継ぐものとする。

 

 

まず、現実の朝鮮半島と想定上の朝鮮半島とで、ハッキリと違いを示すであろうものがある。

それは、半島西岸部の都市規模である。

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上図を見ると、上海~平壌・仁川・洪城(ホンソン)・木浦(モッポ)間における海上移動がいかにも盛んになりそうな気がしないだろうか。

したがって、中古代においては、以下の航海ルートが想定される。

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地名はすべて現代のもので表記している。

青島⇔A都市(架空部分のため地名なし)間は比較的希薄な関係になる可能性があるが、中古代のこの朝鮮半島においては、南西部の木浦や洪城が大きな港湾都市となっていたと見てよいだろう。

また気候で見れば、半島南部から仁川付近までは温暖湿潤気候となるため、南部には生育のしやすい南北間で植生のバリエーションが生まれ、長安モデルの大都市を作り上げるだけの木材資源を確保できた可能性がある。

そうでなくとも、中国から見ると重要な市場となっていたことは想像に難くない。

しかし、長安はかなり内陸部の方にあったため、そもそもこの朝鮮半島が存在していたら、長安という都自体が存在しなかったか、或いは同規模かそれ以上の都市が上海付近に建てられていたのかもしれない。(上海という地名は11世紀の宋の時代に生まれたため、別名の都市が生まれていたかもしれない)

そうなれば、中国文化の輸入はさらに早期に行われただろうし、何なら中国の一部になっていたかもしれないが、ここでは朝鮮半島が独自の国を作り上げた想定を行う。

 

おそらくこの朝鮮半島でも、各都市間の関係性が希薄で閉鎖的であるため、文化的には中国に依存することに変わりはないと考えられる。ただし、西岸部の都市間での交流が起こる可能性は否定できない。

半島南部の各都市の繁栄も、結局は中国の存在ありきということで、中国で王朝が安定している時代は半島南部が栄え、中国で権力が分立している時代は半島北部に主権が移る、という流れが想定できる。

だが、ここまで南北に長い半島を統一するのは困難を伴いそうである。北方民族の影響を受けやすい北側と、中華文化の影響を受けやすい南側とでは別々の国が興る可能性も高い。 

 

 

仮にこの朝鮮半島で史実通りに歴史が進んできたとして、民族関係が複雑になる中世ではどのような道を歩むことになるのか。素人の妄想だと思って一読いただければ幸いである。

 

918年、高麗成立から考えてみる。

 

 

①中国融合ルート

漢の武帝や隋の煬帝など、朝鮮半島に進出して武力で従属させた皇帝が史実にいたように、こちらの朝鮮半島でもそういったことが起こる可能性がある。

 

960年に中国で宋が成立する。契丹などの北方異民族の討伐よりも朝鮮半島への侵攻を優先し、犠牲を払ったものの10世紀末に高麗を宋に併合する。朝鮮半島の軍事力を手に入れたことで、史実では10世紀末に発生したはずの契丹の朝鮮侵攻が起こらない。

 

遼や金の興亡のあと、13世紀前半にモンゴル帝国の侵攻が始まる。宋は本土と朝鮮半島の北方を奪われ、モンゴル帝国は元と国号を改める。

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大都とは現在の北京にあたるが、こちらの世界においては上海付近が狙われていた可能性の方が高い。資源力の高い江南(中国南部)と高麗を確保していた南宋は、元の撃退に成功する。そのため、元の日本侵攻は起こらない。

 

②協力ルート

契丹の朝鮮侵攻を経験したのち、今度は女真族の攻撃に遭う。女真族は1115年に金を建てて遼を滅ぼすが、高麗の反撃に遭い衰退。版図を一時的に拡大した高麗だったが、やがて元の侵攻が始まる。

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宋は元に追いやられ、北部を支配される。高麗も苦戦を強いられるが、元は南部まで侵攻することができず、高麗は南宋と手を組み元を撃退する。

そのため、元の日本侵攻は起こらない。

  

③軍事強国ルート

918年に成立した高麗は、早々に半島を統一、半島全域に強固な支配体制を敷き、中国大陸に次ぐ第2の大国となるべく軍事国家への歩みを始めた。半島南部の食糧生産を重視し、首都機能は平壌に集約させた。

960年に成立した宋を攻撃し、北東部を支配。渤海国を滅ぼした上、契丹女真族を北方に追いやる。

その後1206年にモンゴル帝国が成立するが、相次ぐ高麗との戦いで疲弊し、宋・高麗への侵攻を成功させることはできなかった。

やがて13世紀後半、高麗は日本に侵攻する。慶州(キョンジュ)や釜山から出兵し、長崎に上陸。鎌倉幕府軍との戦闘を有利に進め、一時的に九州北西部を制圧するが、宋からの侵攻が絶えず、国内が疲弊したため撤退する。

14世紀には李成桂の乱が起こり、高麗は滅亡して1392年に李氏朝鮮が興る。

下図は、高麗の最大版図である。

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④南北不統一・元服属ルート

 918年に成立した高麗だが、女真族の侵攻を受けた渤海国が南下してきたため、半島統一を成し遂げられなかった。

1206年のモンゴル帝国の成立までこの状況は続いたが、モンゴル帝国の強大化を警戒した宋は渤海国を滅ぼし、女真族の居住地にまで侵攻したうえ、高麗を服属させた。

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その結果、宋は軍事力は拡大させ、モンゴル帝国からの侵攻を防ぎ、高麗からの朝貢を受けながら13世紀を過ごすことになる。

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しかし13世紀後半になると、元からの相次ぐ侵攻で宋が疲弊し、北方の女真族も活発な動きを見せる。やがてモンゴル帝国が宋に侵攻し、元と改めて中国全土を支配し、高麗を飲み込む。

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元は高麗軍を2度の日本侵攻に向けさせる。慶州・釜山から出兵し、九州に上陸、鎌倉幕府軍と戦闘になるが、ここは史実と同じで台風により撤退したと考える。

 

やがて元が衰退し、高麗が復活するも、朝鮮半島南部で成立した李氏朝鮮によって高麗は北部に追いやられる。やがて李氏朝鮮が高麗を滅ぼし、1392年に李氏朝鮮が半島を統一する。

 

ーーーーーー以上ーーーーーー

 

史実に最も近いのは④であったが、いずれもこちらの世界においては十分に起こり得たことであるため、皆さんにもぜひ考えてほしいところである。特に③のように朝鮮が独自の力を持ち、強大化するというのは、史実では文化的に起こらなかったことであるため(小中華思想朝鮮民族中華文化の後継者であり、独自の文化を持つことは夷狄であるとする考え方)、「もし」を考える際は文化的・社会的な側面から覗いてみてはいかがだろうか。

またシナリオを想定するにあたっては、朝鮮半島の南北格差を考慮するのを重要視した。半島北部が侵略されても半島南部は生き残ったり、半島南部の国が北部の国を制圧したりと、「南部>北部」といった順位関係をつけていたのにお気づきだろうか。この朝鮮半島を考えるときは、この視点は決して間違ったものではないはずだ。

 

 

さて、なぜこんなに中世の朝鮮を取り上げたかについて説明したい。

というのも、史実の朝鮮半島というのは、1392年の李氏朝鮮の成立以降、1897年の大韓帝国成立まで一切王朝が交代せず、かつ継続して中国の王朝の属国になっていた。

元が衰退したのち、中国では明が興ったが、朝鮮はその明に服属し、満州族率いる清に代わってもやはり服属を続けた。

中華文化に倣わず、独自の文化を持つことは野蛮だ」と考えられていた李氏朝鮮においては、朝鮮固有のハングル文字が制定された事例があったが、官僚や貴族からは相当な反感を買った。

一度社会に定着してしまった文化や価値観は、なかなか変わらない。

中華文化に倣う」という小中華思想をやめることができた最後のチャンスは、史実上では李氏朝鮮の成立前だったのではないかと私は思う。

だから、南に移動した想定での朝鮮半島の中世を考えてみたくなったのである。

 

小中華思想の原点は、百済新羅高句麗の時代に遡る。中国と地べたで国境を接していた朝鮮半島の国々は、自分たちの勢力争いに中国の力を借りることがあった。

新羅が一時期半島のほとんどを統一したことがあったが、それは唐と連合軍を組み、高句麗を滅ぼしたからである。

 

この世界は、朝鮮半島~中国の往来が、航海メインになった世界でもある。だから、史実とは違い、中国に服属しなくても問題がない可能性が出てくるのである。

 

 

最後に。

こちらの朝鮮半島李氏朝鮮以降、中国に服属するのをやめた世界についてもぜひ想像してほしい。特に近現代における日朝関係史は、大きく変わることになるだろう。

朝鮮半島全土がソ連になっていたかもしれないし、日本と並んで早期に開国をしてライバルとなっていたかもしれない。

一体どうなっていたことだろうか。現在の朝鮮半島よりも先進的な道を歩んでいた可能性が高いことは確かである。