ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

無題②

アメリカにおける21世紀初頭頃に生まれた年代を指す「Z世代」という言葉が、いつしか日本にも浸透していた。

 

このZ世代が社会の中核を担う頃は、今よりももっと「カラフル」な世界が広がっているのかもしれない。

 

歴史を見渡すと、時代が進むにつれて人間のバリエーションが増え、また数テンポ遅れてそれが社会的に市民権を獲得していく、という流れが出来上がっている。それは同性愛者であったり、特定の人種であったり、また特定の宗教の信者であったりと様々である。つまるところ、現代社会は確実に「すべてが認められた社会」に近づいて行っていると言いたいのである。

 

「すべてが認められた社会」の対義語は、「何も認められない社会」ではなく、たぶん「一つのことしか認められない社会」であると思う。そこの人々はずいぶんと画一的で、考え方も生き方も、同じようなものしか認められない。そんな社会である。

 

つい30年前まで存在していたソ連は、その典型例であったと思う。

ソ連の人々は、私有財産の自由を捨てることを強いられた。すべては、平等な世界を作るため、労働者の楽園を作るためであった。国は計画経済で動き、競争も生まれず、魅力的な商品がソ連中から次々と姿を消していった。

 

共産党を批判することも許されなかった。みんなが「共産党のやっていることは正しい」と思って行動しなければ、うまく動かない仕組みだった。誰かがこっそりと財産を蓄えれば、その時点で「平等」は崩壊する。

人間は、一致団結して完璧に平等な社会を作れるような生き物ではなかったのだった。ソビエト連邦は、人間の限界を見事に示した大国であった。

 

共産主義社会とは「全員が同じことを考え、同じことをしないと成立し得ない」社会である。多様性の甘い汁を吸いまくっている僕は、この観点で共産主義という考え方自体に批判的である。批判ポイントはそれだけではない。やはりあの世界は、ただ単に理想を追いかけていただけであった。"科学的社会主義" に基づいたあの世界も、結局は労働者の怠惰を引き起こし、社会を灰色で塗りたくった。生まれてきた人間もまた、灰色の人生を送ることになった。ソ連国民は、世界最多の犠牲者であるのかもしれない。

 

言論の自由が保障されたこの現代日本社会では、自分たちの権利を声高に叫ぶことも、政府を糾弾することも、あらゆるものが主張として発せられている。僕が考えている「カラフルな社会」の "カラフル" とは、決して良いものばかりではない。

 

人が何かを批判するとき、その文言の中には少なからず、悲しみ、怒り、憎悪など、やはりマイナスな感情が混入されている。先ほどの僕の共産主義を批判する文言にも、「そこで画一的な人生を送ることを強いられた人々のことを思った僕」のマイナス感情が渦巻いている。

 

本当の多様性とは、そういったマイナス感情にも蓋をしない。だから、「すべてが認められた社会」では、今の社会よりもずっと多くの誹謗中傷が、社会を飛び交い、誰かに突き刺さることになるのかもしれない。

 

「多様性を認めましょう」と「偏見・差別を無くしましょう」という言葉。"思想の自由" は青天井である。しかし、それが "言論" として発せられたとき、そこにリミッターを設ける役割を担っているのが、実質的には法律である。

 

本当に多様性を認めるのであれば「特定の属性を持つ人々に対して、それを口には出さないが偏見を持っている人」のことも認めなければならない。もしその人が偏見を言葉として発したとき、その言論の自由に法律が天井を作り出す。ところが、その人が「自分のその攻撃的な発言も多様性の一つだ」と主張し始めたら、我々はどうすればよいのだろうか。

結局は「道徳」に落ち着く。「ああ、この人は道徳心が欠如しているんだ」と。「すべてが認められた社会」に近づくにつれ、人々はせめぎ合い、やがて法律では根本的に解決できない問題があることを鮮明に認識し始めるだろう。またそれが、人間の持つ多様性によって引き起こされていることも。