ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

創作論

現実で思いついたままに言い放った一言「創作の本質は自己満足なんですよ」。

 

私はこれを言い放ってからというもの、自分が「満足感を得ることに貪欲な生き物」に化けないかヒヤヒヤしている。

 

満足感を得る、といっても、満足するための"条件"は人によって違うし、もっと言えばただ一人の人間のなかでも、状況や気分によって変わってくるものである。

どういう条件を満たせば満足できるかというのは、その条件を満たした後の自分にしかわからない。そうすると、今度は「条件探し」が始まってしまう可能性がある。満足するための条件を考え、探し求めるようになる。

 

それは創作と言えるのだろうか。

 

...とまあ、変な危惧をしつつも、自分なりの創作哲学を考えるのに最近ハマっている。

 

この前ふと思ったのは「カタチにすることだけがクリエイティブではない」というもの。以下、私のTwitterより引用。

 

「カタチにすることだけがクリエイティブではないよなと思う」

「前までは『クリエイティブ』の定義を拡大させていくことに抵抗があったけれど、それは『誰が見てもクリエイティブと言ってくれそうな自分の活動』に自信を持ちたかっただけというかなり愚かな考えから来たものだった。そんな人間が作るものには必ず何か邪な思考が透けて見えるようになるのだと思う」

「創作で一番大事なのは自分が満足すること(あるいは満足できるまで追求すること)だと思っているので、『どっちが上か下か』などとモノサシをつくって測るもんじゃないよね」

 

引用終わり。

個人的に一番共感(←?)できるのは、「創作で一番大事なのは(中略)満足できるまで追求すること」という文言。

これがまさに、自分の創作手法を的確に表したものだからだ。

 

 

気になるのは、「満足感」の源は何なのかということだ。

例えば受験の世界では、レベルの高い志望大学に受かったとき、「自分が勉強の世界で上位のレベルになれたこと」に満足感を覚える人もいれば、「自分が行きたかった大学に受かったこと」に満足する人もいる。

この2つはそれぞれ異なる「欲求」を源としているような気がする。自分の創作哲学により近いのは後者だが。

 

逆に前者は、自分の創作とは相容れない要素を持っている。それは「競争心」である。

 

ときに競争心は計り知れない原動力になるが、その分普段の精神状態にとっては大きなリスクとなる。上に行くという感覚はつまり「誰かを見下すこと」に等しく、さらに言えば「誰かに見下されている感覚」を持つことにもなりうる。自分は彼よりも能力的に優れているとか劣っているとか、そういったネガティブな感情が入り組んだ状態というのは、自分が望む創作のあり方ではない。

 

私がここで述べておきたいのは「人間できることもあればできないこともある」という旨ではない。ただ単に「"自己満足" で完結できる世界に、わざわざ競争心を持ち込む必要はないはずだ」ということである。

 

...

 

人間は、集合すると共同で何かを生み出そうとしたり、役割を決めて仕事を行うようになったりする。そのコミュニティが何を目的としているかにもよるが、基本的には「コミュニティへの貢献」、つまり「各々の仕事の出来栄えや能力」が、コミュニティ内での "その人の存在価値" をやがて決定するようになる。

 

平たく言えば、「人間は集まると勝手に競争を始める」ということである。

この性質が、創作を軸とするタイプのコミュニティにおいては非常に厄介なものとなる。

人間が普遍的に持つ競争心や生存欲求は、皮肉にも「競争の発生・激化」という過程を経て、コミュニティの質を向上させていく。質の向上に貢献できなかった(と感じる)者は、次第に存在価値と自己肯定感を失っていく。

 

創作団体は現代的なものだが、その中で渦巻く人々の心理というものは非常に原始的である。

どれだけ創作に競争心を持ち込まないように全力を尽くそうとも、人間の性というものか、人が集まれば集まるほど、それは限りなく不可能に近づいていく。

 

 

だからこそ、「コミュニティに貢献できたかどうか」ではなく「自分が満足できたかどうか」を大事にするべきなのだと私は思う。