ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

プロの真似

世の中には、一般に何かに長けた「プロ」と呼ばれる人達が存在する。彼らは常々誰かに希望を与え、誰かから尊敬され、誰かによって支えられているものだが、そんな彼らの一面を借りて自分を正当化している人が、世の中に存在しているということを指摘したい。

 

プロというのは、例えば絵描きであったりゲーマーであったり、サッカー選手であったり投資家であったりと、実に幅広い分野に生息している人々のことだが、彼らは何もせずにプロになったわけではない。彼らには彼らのきっかけがあり、プロセスがあり、そして無数の思考があったはずだ。それは他の誰かが「完璧に」真似できるようなものではないはずである。(もしそうだとしたら、今頃誰しもが何かのプロになり得ていることだろう。)

 

彼らは、そういった彼らにとっての草の根活動を経て、現在ではプロと呼ばれるに至り、その無数の体験から思考を生み、動き、また考えるのである。その全貌を、我々が数十分や数時間、いや数日観察したとしても、完全に理解するには至らないだろう。

 

ところがここで、数十分から数日で、「自分がこの人のコレを真似すれば、自分も上達できるのだ」と思い込んでしまう人がいる。その人のたった一面ないし僅かな部分を観察しただけで、である。参考程度に留めておくか、選択肢の1つとして頭に入れておく分には全く問題はないだろうが、そういった人たちは意識の根底で、プロたちを「正しい人」と見なし、その「表面的な」行動や思考をも丸ごと自分のそれに上書きしてしまう。

 

厄介なのは、単なる憧憬の念が、そういった行為に繋がっているということである。憧れながらも、対象と自分とを切り離し、「自分はその人になれない」あるいは「そのプロは必ずしも正しいとは限らない」と考えた上で、プロの行動を観察し適度な実践を行うことが望ましい状態だと私は考えているが、一度そのプロを「正しい」と見なし、上書きコピーを始めてしまうと、取り返しのつかないことになる可能性がある。

 

そのプロを「正しい」と思っている人にとっては、上書きコピーというのは実に楽で安全な方法なのだろう。しかし、同時に彼らは、上書きコピーが孕む危険性を見落としてしまう。

 

最も危険性が高いのは、そのプロの表面をコピーしたような思考しかできなくなることである。プロは幾多の困難を乗り越え、経験を重ねに重ね、試行錯誤を繰り返してきた人である。例えば今、そのプロが"A"という行動をとっているとする。ではその時、果たしてそのプロが「"A"という行動しかとらない!」と考えている可能性はどれくらいあるのだろうか?"B"だったり"C"だったり、あるいは"D"だったりと、常に様々な選択肢を頭に浮かべ、比較検討を重ねた上でようやく"A"を選択するに至っているとするならば、"A"という行動を「真似る」ことはできても、「見習う」ことにはならないのではないか。

 

それだけではない。「そのプロは正しい」という認識故に、プロと同じような行動をとる自分をも「正しい」と錯覚するようになることさえある。極端だが、「周りはあのプロを真似していない、見習っていない。この中で正しいのは自分だけで、他は正しくない」という思考に走りかねない、そんな危険性をも、上書きコピーは抱えている。もし本人が言語化していなくても、根底ではそういった思考のタネが、芽を出している可能性は否定できない。

 

「どうしてそういう行動をとるんだ?」と聞かれ、「こういった経験をしたことがあり、そこから学んだからだ」と答える人。

「どうしてそういう行動をとるんだ? 」と聞かれ、「あの○○というプロがやっているからだ」と答える人。どちらが「正しい」かは人それぞれだが、私は少なくとも前者の方が自分の成長に繋がるだろうと考えている。もちろん、プロから学べること、学ぶべきことはたくさんあるに違いない。しかし、自分を最も大きく成長させ、その芯を強いものにしていくのは、プロの真似事ではなく、「自分の経験」なのではないだろうか。