ゆべ白石の軌跡

出来事、価値観、制作物などの記録を行っていました。note移行に伴い更新停止【2020.1.8~2022.6.28】

失われた期待感

受験終了後(2021年2月20日頃)に書いた文章に若干の改変を加えた。当時の自分の精神分析によって得られたものであり、思い出深いので公開して残す形となった。

 

 

-本文始-

 

合格の2文字を見たとき、感じたのは嬉しさでも、達成感でも喜びでもなかった。

 

何も感じなかった。「無」だった。

 

明らかにおかしい。本来湧き上がるはずの感情が、そこには存在しなかった。失われていた。僕はあれだけ頑張って、諦めずに努力を重ねてきて、それで一体なぜ達成感が微塵もなかったというのか。

 

まず、覆されることのない前提として、僕は受験を強く恐れていた。

" 僕は勉強が嫌いだ。できればしたくない。でも受験は必ずやってきて、逃げる事はできない。嫌いな勉強を死ぬほどやらなければならなくなる。果たして自分にできるだろうか。不安で仕方がない "

また、受験が持つ特質も関係してくる。

" 第一志望は決して難易度も倍率も低くはない。その上僕は勉強が嫌い。しかし、これは自分で決めた目標だ。達成できないと、自分で決めたこともまともに達成できない「できそこない」になってしまう。親にも迷惑をかけるし、その上自分は、望まない道を歩むことになる。真っ暗で退屈な道。迷惑をかけておいて歩むのがそんな道… "

受験への漠然とした、巨大な不安感がそこには確かに存在した。

 

高校受験のとき、あの冬休みで死にかけていたのを思い出すことがあった。その記憶を振り返る度、僕の心の奥底では、以下のような心理がはたらいていたのではないかと思う。

 

" できればそんなつらい思いは二度と味わいたくない。つらい思いをしたくない、ショックを受けたくない。ショックを受けないようにするには、最初から自分に期待しなければいい。"

 

 

人間の意識には何層かの階層がある(と僕は考えている)。最上層は、すぐに発話ができるくらいハッキリと具体化された思考や感情。中間層は、ハッキリとしてはいないが、その存在は自分で認識できる。最下層は、その存在すら自覚することができない。

 

自分に期待をしてはならない、という意識は、最下層、すなやち自覚できないほど深い領域で蠢いていた。それが、失われた達成感の原因になったと考えられる。

 

僕は自分への期待をやめたつもりは全くなかった。少しでも勉強が上手くいけば、「この調子で頑張ろう」と自分を鼓舞していた。しかし、今よく考えるとあの鼓舞には、なんだか中身のない、ハリボテのようなものを感じざるをえない。当時の僕は、それに気づかなかったのか、あるいは気づきたくなかったのか。

作られた鼓舞。なるほど、期待をするのは上辺の僕に任せ、内部ではしっかりと期待感の生成は止められていた。

 

達成感や喜びというのは、それ相応の期待感があって感じられるものであって、僕が達成感を感じなかったのは、そもそもの期待感がからっぽだったからであろう。

 

期待感の生成を、自覚不能な深い領域の段階で強く押さえつける。しかしこのメカニズムは、僕が自身の死を回避するために生み出したものといえるかもしれない。

 

受験に失敗したとき、もしこのメカニズムがなかったら、それまでに生成されてきた期待感、そして巨大な不安感が一気に変換され、処理しきれないほどの絶望感となり、燃え尽き症候群を発症して死んでいた可能性が考えられるからである。

 

 

一般的に人々が考える受験生とは、受験を良い結果で終えれば、嬉しさと達成感であふれかえるものだ。

 

僕はそうではなかったのだった。

 

-本文終-

 

 

自分に期待をしないことが生きるための術となってしまったのは、もう仕方のないことであるが、それでも虚無感というのは非常に恐ろしいものだと思う。

あれだけ勉強が嫌だった僕も、正月ののんびりした空気の中で「勉強をしていないと落ち着かない」と感じるようになっていたから、不安感は人を奥底から駆り立てるものなのだなと思った。

しかし、それが人間らしいことなのか、それについては疑問が残るままである。